Q: 哲太郎さんからのご紹介ですが、どのように知り合ったのですか?
哲太郎さんが監督した短編映画に、俳優として参加したのがきっかけです。去年の11月頃にオファーをいただき、今年の1月から2月にかけて撮影しました。哲太郎さんは、いつもユーモラスで面白い方。監督としてもそこは基本的に変わらないんですけど、私が現場で少しでも疑問を持つと、100%以上の答えをくれるんです。私は性格的に、疑問を抱いたままお芝居することがとても苦手なので、私が理解できるまでとことん向き合ってくださるその姿勢は本当にありがたかったです。こんなに丁寧な方がいるんだと驚かされましたし、次に活かせる気付きもたくさん得られた現場でしたね。
Q: 演技に出合う前は、バンド活動を熱心にされていたそうですね。
そうですね。中学で軽音楽部に入りました。中高一貫校だったので、高校2年で引退するまでの5年間、ボーカルとして椎名林檎さんや東京事変、それから顧問の先生のおすすめでクイーンやディープ・パープルのコピーをしていました。活動としては、文化祭で演奏したり、レコード会社が主催する大会に参加したり。
Q: そもそも音楽には、いつ頃目覚めたんですか?
小学5年生くらいにJUDY AND MARYにハマったのが大きかったですね。親が好きだったからなんですけど、初めて聴いた時はすべてが斬新で衝撃的でしたし、今でもボーカルのYUKIさんは私にとって特別な存在。当時は、バドミントンのラケットをギター代わりにして、友達とジュディマリの真似事をして遊んでたくらいです(笑)。その頃から「いつかバンドを組みたい」っていう強い気持ちがあり、軽音学部のある中学校に入学しました。
Q: では、軽音楽部ではジュディマリのカバーもされていたんですか?
いや、実はほとんどしてません(笑)。私が組んだバンドにはキーボードがいたんですけど、ジュディマリにはいなかったので、コピーしなかったんだと思います。でも、ジュディマリと同じくらい椎名林檎さんにも衝撃を感じていたし、ほかのメンバーもみんな林檎さんをリスペクトしていたので、そっちに興味が傾いていった感じですね。
Q: 歌うという表現方法のどこに魅力を感じていたんですか?
私は幼い頃から、わんぱくな反面、劣等感が強く、いろんなコンプレックスを抱えていたんですね。例えば、松浦りょうは本名なんですが、必ず“りょう君”と呼ばれることが、子供の頃はとても恥ずかしくて、劣等感を感じていました。今だったら個性と割り切れるけど、小さい頃ってそう思えないじゃないですか。歌うことは、そういうマイナス思考から生まれた感情を解き放つ場だったような気がしますね。歌うことで、精神のバランスを取っていたというか。今は演技を通して、同じことをしている気がします。
Q: ボーカルとして人前に立つこと自体も楽しめていたんですか?
今思うと、普段は自分に全く自信がないのに、ライブなどで歌っている時だけは自信を持てました。その当時の私にとって歌うことは唯一の自己表現だったんだと思います。
Q: そこまで歌うことが好きだったら、歌手を目指すという選択肢もあったんじゃないかと思います。俳優の道に進んだ背景には、どんな心境の変化があったんですか?
引退ライブをして、なんか燃え尽きちゃったんですよね。5年間没頭し続けたので、「バンドはもういいかな」って。ひとりで弾き語りみたいなこともしましたが、私、作詞ができないんですよ。だからといって、ずっとコピーをするのも違う気がして。そんな時、事務所のマネージャーさんが映画のオーディションに誘ってくれたんです。そのオーディションが、私の俳優デビュー作となった『渇き。』でした。監督の中島哲也さんはすごく怖い方で有名なんですが、私はのびのび自分のまま演じることができて。お芝居だったら歌でアウトプットしてきたエネルギーを活かせるかもと思えたんです。
Q: 『渇き。』では、ご自身の演技に手応えを感じられたわけですか?
バンドでライブをすることに似た達成感がありました。大きい役ではなかったし、すごいお芝居ができたとも思っていません。ただ、明るいギャル要素のある子の役だったんですが、私のなかからそういう要素を引っ張ってきて、演じることができたと自分では思っていて。そのことに達成感を覚えたし、もっといろんな役をやってみたいという好奇心も芽生えたんです。
Q: 歌うことと演じることは、ご自身のなかで繋がっているんですね。逆に違う点もあると思いますか?
さっきもお伝えしたように、私は自分で歌が作れなかったんですよ。 つまり、0から何かを生み出す才能が自分にはない。それもまたひとつのコンプレックスでした。その点、俳優業は台本というヒントをもらえるのが違うのかなと思います。私はもともとある素材を自分なりにどう最大限に伸ばすかってことを考えるのが好きなんだと感じます。
「今年は俳優として成長する為の勉強の年にしたい」と松浦さん。「あらゆるものを吸収する為には、0でいることが大事。だからこそ、服装も極力シンプルにしているんです。今日のコーディネートもその普段着のままです」
Q: 演技という新たな表現の活路を見出した後、挫折はありましたか?
大きな挫折はないかもしれません。ただ、一つひとつのオーディションに、本当に全力投球で向き合うので、落ちるたびに普通に傷つきます。数えきれないくらい落ちまくってきたので、今では大きな挫折と同じくらいのレベルになっているんじゃないかな(笑)。結局、俳優って求められてないといけない商売じゃないですか。だから、「自分は求められていないんだ」と突きつけられたような気分になるんですよね……やっぱりネガティブ思考なので。
Q: それでもなおオーディションを受け続けるのは、やはり現場で得られる達成感が忘れられないからなんでしょうか?
そうなんでしょうね。とはいえ、オーディションは何度経験しても慣れませんし、未だに得意ではありません。いい加減、精神的に強くなりたいのですが……(笑)。
Q: 現在、松浦さんは事務所を退所されフリーランスになっています。それはどういう決意だったんですか?
理由はいくつかあるんですが、大きかったのは、『赦し』という映画で釜山国際映画祭に参加させていただいたことですかね。釜山国際映画祭は、世界各国の映画業界の方が集まる映画祭で、マネージャーさんなしで映画のクルーたちと行ったのですが、私はほとんど英語ができず、ひとりでは誰ともコミュニケーションを取ることができませんでした。ただ、問題の本質は、英語ができないことではなく、積極性がないことでした。拙い英語だとしても「私は俳優をしています。私の出演作の上映は〇〇日だから見にきてね。」と伝えられれば良いだけなのに、その勇気が出ませんでした。ひとりでは自分が何者であるかさえもまともに伝えることができなかったんですよ。それが本当に情けなくて。その経験を通して、できる限り早く独り立ちしないと、一生人に甘えることになると気付いたんです。なので、一度自分で全部やってみようと、フリーランスになったんです。
Q: ということは、今は自分で自分をプロデュースする段階に入っているんですね。
それはそうなんですけど、思った以上に大変です(笑)。仕事がうまくいくのもいかないのも、すべて自分の責任ですから。でも、フリーランスになったからこそ、今まで自分が事務所にどれだけ甘えていたかもわかったし、本当に恵まれた環境にいたんだと気付けたので、結果として良かったなと。このままずっとフリーランスを続けることはできないかもしれないけど、仕事する相手の方々と1対1で向き合っている今の感情や経験は一生ものだと思います。
Q: では、最後に今後の目標を教えてください。
俳優を始めた当初は、「こういう人になりたい」って全くなかったんですよ。今もそこまで明確な何かがあるわけじゃないんですが、あえて言葉にするなら、作品の事前情報を何ひとつ入れなくても、「松浦りょうが出てるなら観たいよね」って言ってもらえるような、信頼される俳優になりたいですね。
俳優
松浦りょう
まつうら・りょう 徳島県生まれ。2014年に映画『渇き。』でデビュー。2019年に大河ドラマ『いだてん ~東京オリムピック噺~』に出演し、2020年には映画『眠る虫』で初主演を務め、MOOSIC LAB2019長編部門グランプリを獲得。2023年には映画『赦し』のほか、『人生に詰んだ元アイドルは、赤の他人のおっさんと住む選択をした』に出演。公開予定の映画・ドラマなど待機作が複数控えている。Instagram @ryomatsuura