夢に向かって体当たりで挑む人生は、どの瞬間もシネマティック

Text: SHINGO SANO
Photo: TOSHIAKI KITAOKA(L MANAGEMENT)

アクアスキュータムがブランド誕生から170周年を迎えた今、改めて「続けること」と「続くこと」を考えるインタビュー連載。時代の変化に寄り添いながらも、確固たるアイデンティティを守り、育んできたアクアスキュータム。その価値観に共鳴するクリエイターたちに、「続けること」と「続くこと」の意味を数珠繋ぎに問いかけていきます。今回、俳優の藤江琢磨さんからご紹介いただいたのは、2023年に初監督作品『BLUE BOY LOVER』を公開した哲太郎さんです。15歳の時に経験した居候暮らしのことや、初めての映画作りについて聞きました。

Q: 藤江琢磨さんからのご紹介でしたが、どのようなお知り合いですか?

 

僕が高校生の時に、中目黒と池尻大橋の間にあるカフェがあったのですが、そこで働いていたのが琢磨くんでした。琢磨くんはすでに24歳ぐらいでしたが、年の離れた年下の僕に対して「タメ口で良いよ」って、ひとりの人間としてちゃんと接してくれたんです。去年僕が初めて監督した映画の試写会の時も、短編映画のイベントをやった時も観に来てくれて、ただ良かっただけじゃなく、自分なりの感想を率直に話してくれました。ここ最近また頻繁に遊ぶようになって、いつか一緒に作品を作りたいねって話しています。

Q: 広島県の生まれということですが、高校生の時に上京したんですか?

 

14歳の時にギターを習っていたんですが、ろくに練習もしないし、勉強もしないので、ギターの先生が何もやらないなら映画でも観ろよって、『ゴッドファーザー』のパート1から3を貸してくれたんです。それを観たら面白過ぎて、一気に3本観終えてしまったんです。それを先生のもとにすぐに返しに行ったら、DVDを100本ぐらいまとめて貸してくれて。それで映画にハマって、絶対役者になりたいって、勢いで上京することを決めました。

Q: それが映画との出合いということですか?

 

『ゴッドファーザー』で衝撃を受ける前も映画は好きでしたが、父親から勧められたチャップリンばかりを観ていました。小学生の頃、仮病を使って早退しては父親に迎えに来てもらい、そのままDVD屋さんに連れてってもらう流れがあったんです。そのたびにチャップリンのDVDを買ってもらって、全作コンプリートしていたはずです。

Q: 15歳で役者を目指して上京された時、東京に知り合いはいましたか?

 

親戚も知り合いもいませんでした。通信制の高校と役者の養成学校に入学したんですが、寮は絶対に嫌だと母親に言ったら、「ひとり暮らしをさせられるお金はないから、とりあえずこの人のところに行って、助けてもらいなさい」と手渡されたのが、ホキ徳田さんというジャズシンガーのおばあちゃんがやっているお店・北回帰線の住所でした。

ダメージの利いたフーデッドパーカとデニムのワイドパンツに、ステンカラーコートを合わせた哲太郎さん。最近はカジュアルに合わせやすいステンカラーコートが好みだとか

東京に着いて、恐る恐るその店のドアを開けると、奥に座っていたホキさんがゆっくりと振り向いたんです。僕が母親の名前を言うと、ホキさんは「あんたどうしたの!?」って言うので、「家に住まわせてください」と伝えると、「部屋はあるけど汚いよ」って(笑)。それでホキさんが家の倉庫みたいな部屋にベッドと冷蔵庫を備えてくれて、居候させてくれることになったんです。

Q: ホキ徳田さんと哲太郎さんのお母さんはどういった関係だったんですか?

 

それはこれからホキさんの家に行って、ホキさんも交えてお話することにします。ホキさんは高校卒業後カナダの音楽学校に留学して、卒業後はアメリカでジャズシンガーやピアニストとして活動されていましたが、そこで出会った46歳年上のヘンリー・ミラーという有名な作家と結婚して、2000年頃まではアメリカと日本を行き来していたそうです。初めて来た東京で、身寄りのない僕を助けてくれた人なので、とても感謝していますし、今では本当のおばあちゃんのように大切な存在です。

 

ホキ徳田(以下ホキ):いらっしゃい。あんたまた大きくなったんじゃないの? ずいぶん久しぶりね。

 

哲太郎:この前上映会に来てくれたよね。ホキさんも相変わらず元気そうだね。

哲太郎さんがホキ徳田さんの自宅に居候していた当時から、いろんな場面で撮りためてきたツーショットの写真。どの写真からも、ふたりの家族のような関係性が滲み出ている

ホキ:この人のお母さんには昔から驚かされてばかりで。本当におかしな人なんですよ(笑)。初めて会ったのも、京都のものすごく汚いバーで、とにかくもう、世界で一番汚いバーなんじゃないかっていうぐらい、そこら中にゴミが散らかっているところで、そこで働いていたのがこの人の母親なんです。

 

哲太郎:あれは、ゴミじゃなくて一応本とかレコードなんだけどね。とにかく汚いことは確か(笑)。世界一じゃなくて銀河一かも。

 

ホキ:そうそう。そこで「ホキ徳田さんですよね」って話しかけられたんです。まさかこんなところで話しかけられると思ってもいなかったからびっくりしたんだけど、なんでも京都にはヘンリー・ミラーの研究会があって、この子の母親もそのメンバーで、ヘンリーの大ファンなんだって言うんです。夫の作品はとにかく卑猥なことばっかり書いてあるから、こんな若い女の人が読んでいるわけがないと思ったんだけど、どうやら本当みたいで、「私が東京に行く時にお世話になっても良いですか?」なんて言ってくるんだから。

 

哲太郎:母親は文系で、当時は立命館大学に通いながら、京都にあるその変なバーで働いていたんです。

ホキ徳田さんの家で談笑する哲太郎さんは、実家に帰って来たようにリラックスした様子。ホキさんのマシンガントークにすかさず合いの手やツッコミを入れるテクニックは、一朝一夕では真似できない

ホキ:しばらくしたら本当にこの子の母親が上京してきて、私がやっていた北回帰線っていうお店を手伝い出したんです。その建物の一階にあるレストランで、哲太郎の父親と母親は出会ったんです。

 

哲太郎:父親はルーマニアから日本に来て、そのレストランで働いていたんです。

 

ホキ:もうとにかく父親のほうが「She’s so beautiful!」って一目惚れしちゃって大変だったんだから。でも母親もだんだん惹かれていって、しまいには「私もルーマニアに行きます!」って言い出しちゃって。ルーマニアってどこにあるのよって聞いたら、「よくわからない」なんて調子なんだから(笑)。

Q: 15歳で初めて上京して、居候したのがホキさんのお宅という経験は、なかなか刺激的ですね(笑)。印象深かったことはありますか?

 

哲太郎:とにかく東京は怖かったですね(笑)。東京タワーが見えて、「俺、本当に上京したんだ……」って、すごく感慨深かったことを覚えています。

 

ホキ:お店が終わって夜中に帰ってきたら、あなたの友達が何人も廊下で寝ているなんてこともしょっちゅうあったわね。

 

哲太郎:僕が学校から帰ってくると、ホキさんがちょうどお店に行く頃だったから、よく夜ご飯に連れて行ってくれたことを覚えています。あとは東京に来て初めて風邪をひいた時に、ホキさんに看病してもらったこともよく覚えています。でも、とにかくいつも楽しくて、時々物忘れもするけど、大事なことは全部詳細まで覚えているホキさんを見ていると、僕もこういう生き方をしたいなって、いつも刺激を受けています。いつまでも変わらず、元気なホキさんでいて欲しいです。

 

ホキ:またいつでもいらっしゃい。

Q: 役者を目指して上京したということですが、映画監督をやりたいと思ったきっかけは?

 

アル・パチーノになりたくて、役者になる為に養成学校に入って、すぐに事務所にも所属できたんですが、思い描いていたようにはなかなか進まず、養成所仲間と舞台を作って上演するようになりました。卒業後に新しい事務所と巡り合えそうになったのですが、面接を受けるうちに何かが吹っ切れて、自分で映画を撮りたいと意識するようになったんです。

 

Q:モデルの仕事もしていますが、映画と何か関係しているんですか?

 

モデルの仕事は毎日現場が違って、いろんなクリエイターと出会える仕事だし、裏方の制作スタッフとのコネクションも増やせるから、そこで馬が合う人たちと一緒に映画を作るのが、一番の近道になると思ったんです。だから、事務所もタレントや俳優の事務所ではなく、モデルがメインの今のところに所属することにしたんです。

Q: 今年の7月に、ついに初監督作の『BLUE BOY LOVER』が公開されましたが、どういった経緯からこの作品を制作することになったんですか?

 

舞台で知り合った阪本健大っていう役者と一緒に遊んでいるうちに、僕が脚本を書いて、彼がプロデューサーという形で映画を撮ることがひとつの目標になっていました。そんな時に、健大が俳優になるきっかけになったバイト先のバーが、コロナの影響で閉店するって話を健大から聞いたんです。「お前、あの店が舞台の映画撮りたいって言ってたよな」って言われて、「そうだけど、しょうがないねー」って言ったら、「いや、撮るしかないだろ!」って。健大は役者で成功して、その店に退職届を出すことが一番の恩返しだと思って頑張ってきたけど、それができなくなってしまったから、この店を映画に残すことが、せめてもの恩返しだと思ったみたいで。それで、映画を撮ったことのない監督と、プロデューサーをやったことのないプロデューサーのコンビで、お店の閉店2週間前から映画を撮り始めました。

写真右のマフラーは、ルーマニアにいる父方の祖母に編んでもらったマフラー。言葉は通じないが、ジェスチャーだけでも心は通じ合えるという

Q: 思い立ってすぐに映画を撮れるなんて、なかなかすごい行動力ですね。スタッフや資金はどうしたんですか?

 

モデルの仕事で繋がっていた裏方の人たちや、役者の友達に連絡したら、みんなすぐに駆けつけてくれました。資金のほうも、閉店してしまう渋谷の個性的なバーを映画に残すという大義名分があったから、クラウドファンディングでの資金提供が成功しました。クラウドファンディングは本来運営側に17%ぐらいのマージンを持っていかれますが、10日間だけの開催であれば、それがたったの3%で済むんです。僕たちもゲリラ的にやりたかったから、10日間に絞ってファンドを募ったら、240万円も集まったんです。

 

Q: 初めての映画作りは順調にいきましたか?

 

撮影自体は2ヵ月で撮り終えましたが、その後の編集作業が大変でした。当時はパソコンも持っていなかったから、数ヵ月カメラマンの家に通いながら、ひたすら編集をしました。その年の12月23日に試写をすることになったんですが、作品の納品がその前日で、いざデータを書き出してみると、思っていたよりも映像がクリアになって、それまで暗がりで見えなかったところに、助監督の姿がバッチリ映り込んでいたんです。それに気付いたのが納品日の昼。納品の期日は22時で、書き出しには8時間ぐらいかかります。どうにか仕上げたROMを持って22時01分に納品することができましたが、未確認状態。帰宅後に修正版を試写し、間違いなく上映できるデータに出来上がっていることを確認できてほっとしました(笑)。

Q: 試写の反響はどうでしたか?

 

180人がキャパのところに、200人以上来てくれて、立ち観の多い状態で上映しました。上映が終わった時に挨拶に出たんですが、いろんな感情がこみ上げてきて、ただただ「ありがとうございます」って言葉しか出てこなかったんです。初めて人の前で、自分で脚本を書いて監督をした作品を上映する感覚は、みんなの前に裸で立つような感覚でした。自分が面白いと思っていることを、世間がどう感じ取るのか。社会と自分の価値観を照らし合わせる経験なんてあまりないから、そこがとても刺激的で、癖になりそうです。僕はチャップリンに影響を受けているから、どんな作品もコメディにしたいんですが、コメディは特に、観た人の反応がわかりやすいから、好きなんだと思いました。

 

でも、まだ試写が終わっただけで、僕たちは配給のことを全く考えていなかったことに、その時気付くことにもなります(笑)。集まった資金も、制作費に費やしてしまって、全く残っていません……。だからそこからまた作品を編集し直して、長編から中編まで短縮し、手当たり次第に配給会社に営業をかけ、ようやくテアトルさんと話が進んで2023年の7月に上映することができました。撮り終わってから2年間上映できなかったから、とても長い戦いでした。

 

Q: 今はどんな活動をしているんですか?

 

最近になって、健大に「YouTubeで映画やれば?」と言われたんですが、「途中で広告が入るのもイヤだし、スキップされるのもイヤだしって抵抗があったんですが、今は5本撮って、4本YouTubeに公開しました。将来的にはルーマニアをはじめ、海外と繋がって共作もしていきたいから、すべて英語字幕をつけて公開しています。

Q: 毎日何か続けていることはありますか?

 

黒澤 明監督の言葉で、監督をやりたいなら、常に書き続けなさいっていうのがあるんですが、脚本は本当に毎日書き続けていて、その時間が一番楽しいです。特に、自分の無意識の部分から思いもよらない言葉やストーリーが湧き出てきた瞬間は、何物にも変えられません。そんな時は、だいたいカフェで脚本を書いていて、閉店時間になって追い出されるようなタイミングなんですが、素晴らしいアイデアを見つけた僕には、ゾーンに入って世界のすべてがシネマティックモードみたいに見えるんです。ちょうどこういうトレンチコートをバサッと羽織って、リュックサックを掴んで、足早にドアを開けて夜の街に歩き出す。あの瞬間が、マジでたまんないんです(笑)。

今後は日本での活動だけにとどまらず、アジアや欧米のシーンとも連携しながら、グローバルな作品作りを目指す哲太郎さん。海外のインディペンデントな作品にも目を通し、気になる俳優には積極的にコンタクトを取っているそう

Q: 普段からトレンチコートを愛用されているんですか?

 

ベージュのトレンチは好き過ぎて何年も毎日のように着ていたから、とうとうボロボロになってダメになってしまいました。黒のダブルも持っていますが、今の気分は、こういうステンカラーをカジュアルに着る感じです。トレンチの長い裾と、そこから出てくるワイドパンツのシルエットのバランスが、すごく好きなんです。今日合わせているマフラーは、ルーマニアのおばあちゃんが編んでくれた手編みのもの。これからは毎年ルーマニアの親戚に会いに行くようにして、将来ルーマニアと日本を舞台にした、合作の映画を作りたいと思っています。

映画監督・モデル

哲太郎

てつたろう 2001年広島県生まれ。役者を目指し、15歳で上京。養成学校卒業後はモデル事務所STANFORDに所属する傍ら、映画監督、脚本家、俳優としても活動。2023年7月には俳優仲間の阪本健大プロデューサーとともに企画した、初の監督・脚本・主演作品『BLUE BOY LOVER』が公開。短編映画制作チームのcinekorm!も主催し、YouTubeチャンネル上で作品を公開中。Instagram @tetchan51

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