“東京っぽさ”を追い求めて

Text: KEISUKE KAGIWADA
Photo: SHIORI IKENO

アクアスキュータムがブランド誕生から170周年を迎えた今、改めて「続けること」と「続くこと」を考えるインタビュー連載。時代の変化に寄り添いながらも、確固たるアイデンティティを守り、育んできたアクアスキュータム。その価値観に共鳴するクリエイターたちに、「続けること」と「続くこと」の意味を数珠繋ぎに問いかけていきます。今回、梶 雄太さんからバトンをパスされたのは、アートディレクターの前田晃伸さん。知る人ぞ知るデザイン集団・ILLDOZERを経て、2012年には雑誌『POPEYE』のADに大抜擢された前田さんが語る、デザインの未来とは?

Q: 梶さんとはいつ頃からのお知り合いなんですか?

 

知り合ったのは2000年ぐらいだったので、もう20年以上前になりますね。当時、僕はILLDOZERというデザインチームのメンバーだったんですが、ある日事務所に行くと、梶くんが遊びに来ていたんです。

 

Q: その頃から一緒にお仕事もされていたんですか?

 

そうですね。彼の仕事にモデルとして何度か使ってもらったことがあります(笑)。

Q: 最初はスタイリストとモデルという関係だったんですね(笑)。プライベートで遊ぶこともあったんですか?

 

遊んだ記憶はそんなにないかな。だけど、親近感はあったというか、常に気になる存在ではありました。梶くんって、スタイリストとして異質じゃないですか(笑)。

 

Q: 数多くのスタイリストとお仕事されてきたと思いますが、梶さんのどこに異質さを感じるのですか?

 

“東京っぽい”ところですかね。どんなこともちょっとズラしてくるけど、今の自分にスッと馴染むような感じというか。

Q: “東京っぽい”というキーワードは興味深いですね。その視点は、前田さんが愛知県に生まれ、東京に憧れていたから芽生えたんですか?

 

それもあるけど、今、僕が東京にいるということのほうが大きいかもしれません。逆に言えば今の自分にはそれ以外にアイデンティティの拠り所が残されていないというか。

 

Q: では、“東京っぽさ”はご自身のデザイナーとしてのキーワードでもあると?

 

意識しているわけではないけど、結果としてそうなっているんじゃないかな。

自然光が差し込む、新事務所にて。独特なスタイルで話題を集める建築デザイナーの関 祐介さんが、内装を手がけている。腕を添えているテーブルは、前田さん自身がデザインしたもの。「今後はプロダクトデザインもやっていこうと思っていて、このフォールディングテーブルを製作してて商品化に向けてアップデート版を試作中です。もうそろそろ形に出来ると思います。あと漆のスツールとかテーブルウェアも製作しています」

Q: そもそも上京されたのはいつなんですか?

 

名古屋芸術大学を卒業して、東京のデザイン事務所に就職した時です。すぐに辞めちゃったんですけど。在学中から友達が主催するイベントのフライヤーなんかはデザインしてましたが、それが仕事になるなんて思ってもいなかったんですよ。日本の地方都市に住んでいると、何をやっていても世界より前に東京と比較されるじゃないですか。東京に行けば、国内での対立軸がなくなって、気が楽なんじゃないかなって。

Q: そして最初の就職先を退職した後、’90年代後半の“東京っぽさ”を体現するデザイナー集団・ILLDOZERLに参画されたと。ILLDOZERでの一番大きな学びって何だと思いますか?

 

「いかにして街のプロップスをキープするか?」ですかね。最優先されるべきプライオリティは、納得できるまでとことんやる。あくまで結果的にはですが、すべての常識を無視、クライアントへの迷惑も顧みない。本当にクレイジーですよね(笑)。当人たちは真面目に仕事してるだけなんだけど! というねじれた世界に住んでいました。僕が最初に任されたのは、雑誌『SPECTATOR』の表紙のデザインだったのですが、1ヵ月以上延々と作り続けました。マリファナの表紙の号です。最新のマリファナのマークを作るという使命でした。

Q: クライアントとしては困りますね(笑)。「あの頃があったから今の自分がいる」みたいな時期があるとすれば、やっぱりILLDOZER時代なんですか?

 

そうですね……。もちろんそれもあるけど、独立してすぐのほうが大きいかもしれません。元ILLDOZERという十字架を背負っているから、最初は仕事が全くなかったんですよ(笑)。とにかく辛かった。可哀想に思ってくれたのか、面識のあった編集者の方が、書籍の仕事をくれて。それをきっかけに、エディトリアルデザインを本格的に始めることが出来ました。ただ、当時よく依頼されていた本が、全く馴染みのなかった人文系の本だったので、毎回苦戦しました。難しいから読んでも内容が理解できないんですよ。編集者の方に「これはハードコアパンクみたいな本、これはジャガタラみたいな本ですよ」とか噛み砕いてもらったりして、自分との接点を見つけながらやってきた感じです。

Q: でも、そうやって始めたエディトリアルデザインは今の前田さんの主戦場になっているわけですよね。感覚的に合うものがあったんですか?

 

まあ、そうなんでしょうね。エディトリアルには時間軸があるじゃないですか。ページをめくって写真や文字なんかが右から左へ流れていくことに、映画に似た楽しさを感じているのかなって気がします。

Q: その後、2012年には木下孝浩編集長のもとで大幅リニューアルを遂げた雑誌『POPEYE』のアートディレクター(AD)に抜擢されています。どういう経緯だったんですか?

 

木下さんと知り合って、3回くらい会った時だったかな、「今度『POPEYE』をリニューアルすることになったんですが、ADのコンペに参加しませんか?」と声をかけられたんです。ただ、その時はまだフリーランスだったんですよ。その当時、雑誌のADと言えば、スタッフが何人もいて、月刊誌を絶対に落とさない体制が出来ていて、なおかつ実績のあるデザイン会社がやるのが普通でした。そんななか、ロクに月刊誌をやったことがないどこの馬の骨ともわからない僕がなぜか候補になり、しかも採用されてしまったという。採用が決まってからですからね、急いで知り合いのデザイナーの鈴木くんと上条くんを呼び出して「雑誌をマルっとやれる最後のチャンスだし、次に繋がるから一緒にやってほしい!」と口説き落とすというか懇願して、何とかチームを作ったのは(笑)。そのチームのまとまりの悪いことといったら……。漫画みたいな話ですよ。赤田祐一さんの『証言構成「ポパイ」の時代』を読んで創刊当時に思いを馳せてイメージを膨らませました。

Q: 木下さんからデザインの方向性についての具体的なオーダーはあったんですか?

 

細かいことは言われてません。プレゼンしたものに、出来ていないところを作っていった感じです。「創刊当時に立ち帰って“シティボーイ“をキーワードにする」と言われたのは記憶しています。今思えば、最初からロゴを小さくしたり、イラストをふんだんに使いたいとか言っていたような。

新事務所があるのは、古い街並みが残る神楽坂の一角。近所にあるエジプト料理屋は、毎日でも食べたいほど通っているそう

Q: では、それを前田さんなりに咀嚼して、デザインのコンセプトを決めていったと。

 

そんな気もしますね。正直なところ、最初の1年ぐらいは編集部から投げられたボールを反射神経で打ち返していただけで、中長期的な展望を描く余裕はありませんでした。ほかでもよく話していますが、頭が混乱してて、1号目は最悪の出来だと思っていましたもん。ちょうどその見本誌が出来た頃、リニューアル時にファッションディレクターを務めていたハセくん(スタイリストの長谷川昭雄さん)の結婚式があったんですが、すごく暗い気持ちで参加したのを覚えています。「もうすぐ俺はいなくなるのに、こんな晴れの場に呼ばれてもな」って(笑)。

Q: でも、世間的にリニューアルは大評判になったわけですよね。そのギャップはどう受け止めていたのですか?

 

蟹工船のなかで働いているようなものだから、外で何が起きていたのかは知りませんでした(笑)。とにかく正解がわからなかったんです。それはデザインチームだけでなく、関わっていたみんなもそうだったんじゃないかな。だって、シティボーイなんて誰も会ったことがないんだから(笑)。それでも何とか続けられたのは、木下さんへの信頼があったから。木下さんがオッケーを出しているなら、これで良いのかって。それはひとつの安心材料でしたよね。そうこうするうちに、だんだんリズムが掴めてきて、色々出来るようになってきた。

トレンチコートは普段からよく着るという前田さん。「若い頃は丈の長いものを着ること自体がありませんでした。だけど、大人になると寒さに弱くなるじゃないですか(笑)。でも、アウトドアウエアは着たくない。そう考えた時、エレガントなのに防寒具として優れているトレンチがぴったりだったんです」

Q: そういうなかで、冒頭で語っていたような“東京っぽさ”も意識していくようになるわけですか?

 

そうですね。『POPEYE』に携わる前から、『TOO MUCH MAGAZINE』のADも手がけているんですが、日英のバイリンガル雑誌だから、外国向けなんですね。そうすると、自ずと欧米的な価値観を意識するじゃないですか。欧米の雑誌を意識したようなデザインをしても、「俺ら(欧米圏)の真似じゃん」となっちゃうので。『TOO MUCH MAGAZINE』は欧米のマナーをベースにしつつアジア感を盛り込んでいるんだけど、『POPEYE』の場合は、メジャー誌だし、コンビニまで車で行くような地方を視野に入れないといけない。欧米とアジアというふたつの価値観の狭間にいる自分として、「じゃあ、『POPEYE』らしいデザインって何だろう?」と考えながら、作り上げていった感じです。そのひとつのキーワードが“東京っぽさ”なんだと思います。それはある程度うまくいったんじゃないかなと。ニューヨークのコーディネーターから「今の『POPEYE』はこっちでも評判だよ」と言われたり、最近もそこのコインランドリーで出会ったスロバキアのデザイナーも『POPEYE』知ってると言ってたしね。何かしらのオリジナリティを表現出来たのかなと思っています。

Q: 2019年、『POPEYE』のADを退任されました。振り返ってみて、在籍した6年はどんな経験でしたか?

 

とても勉強させてもらったし、その経験は今の自分にプラスになっていますよね。ADとしてどうこうっていうより、ほかのデザイナーやカメラマン、スタイリスト、イラスレーター、ライター、編集者(と編集部のアルバイト)を含めたチームで作る楽しさを教えてもらったというか。自分たちの仕事が大きなうねりになっていく様はなかなか経験出来ることではないし。何にしても死語だったシティボーイが現行のライフスタイルのひとつとして受け入れられたというのは痛快ですよね。ありもしない偶像が立ち現れたわけですから。あと紙面のデザインだけじゃなくてファッションビジュアルもとても大きかったです。ファッションディレクターのハセくんの存在なしでは成立しなかったですね。スタイリストの仕事ってスタイルを作り上げることだと思うんだけど、それってなかなか出来ることじゃない。そんななか、ハセくんがシティボーイみたいなものを、試行錯誤しながら形作っていく過程を間近で見させてもらったのは大きいです。あと白山さん(白山春久さん)のスタイリストを超えた知見には驚きましたね。

Q: ADとデザイナーの仕事に、違いってあると思いますか?

 

あんまり変わらないと思います。僕の場合、自分も現場で手を動かしているというのもあるけど、同じくらいの感覚じゃないとダメなんじゃないですかね。スキルもないのに指示するだけのディレクターっていうのは、なんか違う気がします。人に届けるものを作るには、やっぱりそれなりの鍛錬が必要なんでしょうね。

Q: 最近は、カメラマンとしてもお仕事をされていますよね。それはどういう心境の変化だったんですか?

 

対象への好奇心です。いろんなことをもっと知りたいんですよ。取材であれば、対象者やその場の雰囲気、背景とかね。あとは肌感覚としてですが、今、デザインと言われるものの寿命は、あと 4、5年かなと思っているんですよ。概念的にも技術的にも社会的にも転換期にきてると思います。グラフィックデザインに関しては過去にDTP革命で大きな変化がありましたが、そのようなことが今起きていると思います。そういう危機意識みたいなものがあるから、もっとアウトプットを増やしていきたいし、何より新しいことを始めるって楽しいじゃないですか。そんな気分です。最近、この事務所に引っ越してきたんですが、半分はギャラリーみたいなスペースにしてるんです。今後はデザインもしつつ、別の新しい活動をどんどんやっていけたら良いなと思っています。

前田さんがコートに合わせたのは、スウェットシャツやキャップ、スニーカーなどカジュアルなアイテムばかり。「『POPEYE』をやっていた頃、ハセくんがよくこういうスタイリングを提案していて、その影響ですね。『トレンチは意外と普通の格好にも合うんだな』って」

アートディレクター・デザイナー

前田晃伸

まえだ・あきのぶ 愛知県生まれ。デザイン事務所を経て、デザインチーム・ILLDOZERに参加。MAEDA DESING LLC.を設立。CI、広告、カタログ、パッケージ、エディトリアル、アパレルなど、グラフィックデザインを中心に幅広く活動。www.mdllc.jp Instagram @maeda_design_llc, @akinobumaeda

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