希望を歌うメッセンジャーになりたい

Text: KEISUKE KAGIWADA
Photo: SHIORI IKENO

アクアスキュータムがブランド誕生から170周年を迎えた今、改めて「続けること」と「続くこと」を考えるインタビュー連載。時代の変化に寄り添いながらも、確固たるアイデンティティを守り、育んできたアクアスキュータム。その価値観に共鳴するクリエイターたちに、「続けること」と「続くこと」の意味を数珠繋ぎに問いかけていきます。今回、CHIHOさんにご紹介いただいたのは、アーティストとして都内を中心に活動している、SUNNY ONLY 1さん。幼少期から音楽に救われてきたというSUNNY ONLY 1さんが、紆余曲折を経てプレイヤーになるまでの過程を語っていただきました。

Q: CHIHOさんとは出会ってどのくらいなんですか?

 

実はまだ出会って半年も経ってないんですよ。友達のアーティストであるORRが、week dudus、168とコラボレーションした『危 By』って楽曲があるんですけど、そのMV撮影に参加した時、ダンサーとして出演していたのがCHIHOさんでした。そのすぐ後、CHIHOさんが主宰するエレクトロのダンスバトルに、「MCをしてくれない?」って誘っていただいたのが2回目。台本もちゃんと用意していただいたんですけど、「自分らしく好きにやって良いよ」ってバイブスだったので、めちゃくちゃ楽しくて。バトルが終わった後には、エレクトロの振り付けを教えていただいたのも良い思い出。だから今回は、紹介してもらえてすごく嬉しいです。

Q: ご自身もダンスを踊るのがお好きなんですか?

 

習ったことはないけど、めちゃくちゃ好きです。そもそも運動が好きなんです。

 

Q: それは小さい頃からですか?

 

私、大阪の田舎にある施設で、野生児というか狼少女みたいな感じで育ったんですね。兄から聞いたんですが、小4で初めて上履きを履いたらしくて、それまで裸足で過ごしていたようです(笑)。授業そっちのけで、山に登ってタケノコを掘ったり虫を採ったりしていました。

撮影が行われたのは、青山と表参道に位置する、スパイラルの地下にあるレストラン・Robin Club。同所では毎月、ラッパーのDAG FORCEさんが主催する音楽イベントが開催されている。様々な出自を持つミュージシャンが、飛び入りでセッションを繰り広げるこのイベントには、SUNNY ONLY 1さんも初回から参加しているそう

Q: 野生児! では、音楽に目覚めたきっかけは何だったんですか?

 

当時もJ-POPとかは聴いていましたが、小6の時に母に引き取られ、大阪のもうちょっと都会に引っ越したのが大きかったかもしれません。転校先で音楽好きな友達と知り会えて、それがきっかけで自分でも新しい音楽をディグったりするようになりました。田舎と勝手が違い過ぎて、すぐにグレちゃうんですけど、その時も心の支えになっていたのは、音楽でしたね。学校にもあまり行かず、レンタルショップのCDをひたすら聞いていました。特に当時は、湘南乃風の『カラス』って曲にハマっていましたね。でも、自分がプレイヤーになるとは全く思っていませんでした。カラオケとかも行ってたんですけど、私、死ぬほど音痴だったんですよ。数少ない友達にも、絶妙な表情をされちゃうくらい(笑)。

SUNNY ONLY 1さんの体には、いくつものメッセージがタトゥーとして刻まれている。これはSUNNY ONLY 1さんが音楽活動を始めるきっかけとなったバンド名

Q: モデル活動を始めたのは、そのくらいの時期ですか?

 

そうですね。高校受験の帰り道に、「サロンモデルをしませんか?」と声をかけられたんです。ちょうど同じくらいの時期から、インスタグラムのアカウントを作って、自分の写真を載せ始めたんですが、そうするとまたいろんな方から依頼がきて。いつの間にかギャランティもいただけるようになった感じです。ときどき雑誌の『NYLON』や単発の仕事も入りましたが、メインはサロンモデルでしたね。だから、当時はバイトみたいな気持ちでした。

Q: プロフィールには「19歳でロンドンへ単独渡英」とあります。これは高校卒業と同時ということなんですか?

 

実は高校を卒業するタイミングで、介護の資格を取って、一旦就職したんですよ。でも、やっぱり面白いことをして生きたいなと思って、半年くらい3つくらいバイトを掛け持ちして貯めたお金で、留学しました。見た目は外国人なのに、英語が喋れないことに若干コンプレックスもあったので。イギリスにしたのは、Madkosmosさんっていう先輩のアーティストが住んでいたから。ただ、彼は私が着いた5日後に、日本に帰っちゃったんですよね(笑)。

Q: 唯一の知り合いと入れ違いになってしまったと(笑)。でも、留学ということは語学学校に入学したんですよね?

 

一応、午前中に2時間だけ授業がある学校に入りましたが、ほとんど行ってなかったですね。やっぱり遊んでいるほうが、楽しかったので(笑)。音楽のイベントとかクラブとか、日本だと馴染みがないかもしれませんが、ハウスパーティとかに入り浸っていました。ただ、ポンドって高いじゃないですか。だから4ヵ月くらいいましたが、最後のほうは資金が底を尽きてマジでやばかったです。

Q: 帰国後はまた大阪に住むことになるんですか?

 

大阪に帰ってきて、自分の好きなことをして生きていきたいと思って、東京でモデルをやろう! と勢いで上京しました。実はロンドンにいる時、ゲイクラブにもよく遊びに行っていて、そこで出会ったモデル事務所のマネージャーをされている方から、所属しないかと言ってもらえて、その時はお金もビザもなかったので諦めたんですけど、「モデルとしての素質があるのかも」と思えたことも後押しになりました。それで3万円くらいを片手に東京の友達の家に転がり込んだんですけど、その日のうちにモデル事務所も見つかって。本格的にモデルとして働き始めることになりました。

Q: モデルと並行して、いよいよ音楽活動も始めるわけですか?

 

ロンドンに着いて割とすぐ、ギターを持って旅していた日本人のバックパッカーと知り合いになったんですよ。彼と東京で再会した時、「一緒にやってみない?」って私から誘って、MY FRIEND THE MOONというバンドを結成したのが、プレイヤーとしてのスタートです。

 

Q: 「自分がプレイヤーになるとは全く思っていませんでした」と先程おっしゃっていましたが、どういう心境の変化だったんですか?

 

なんだろう……たぶん、ある時シャワー室で歌っていた鼻歌が気持ち良かったからとか、些細なことがきっかけだったと思います。鼻歌だけだと音楽にはならないかもしれないけど、そこにギターが加わるとちゃんと音楽にもなるし、「なんかイケるんじゃね?」と思ったというか。モデルで生活できるほどには稼げていたので、サブの活動としてやるなら良いかなって。

続いて向かったのは、歌詞で悩んでいる時やリラックスしたい時によく訪れるという代々木公園。ミリタリーファッションをよくするSUNNY ONLY 1さんにとって、トレンチコートは大好きなアイテムのひとつ。「ボロボロのTシャツやジーンズでもトレンチを着ると様になるので重宝しています」

Q: MY FRIEND THE MOONとしての活動期間はどれくらいだったんですか?

 

3年くらいですかね。コロナが始まって、自分に向き合う時間が増えていくなかで、お互いの向いている方向が変わってきちゃって、解散せざるを得なくなったんです。ただ、「これからどうしよう」って考えた時、やっぱり歌い出しちゃったら、辞めることができないんですよ。私にとって、音楽は誰かとコミュニケーションする方法だったので、それを辞めたら、人と関わること自体がなくなってしまうなって。それで音楽をメインにしていこうって意思を固め、SUNNY ONLY 1としてソロ活動することにしたんです。

Q: では、SUNNY ONLY 1という名前には「ひとりでやっていこう」という決意のニュアンスも含まれているんですか?

 

もともとSUNNY ONLY 1っていうのは、私のインスタグラムのアカウント名だったんですよ。当時はあまり深く考えずに、「めっちゃ良い響きじゃん!」ってくらいで付けたんですが、のちに私の音楽のアドバイザーをしてくれている方が、「この名前は天涯孤独なSUNNYの生き方の意思表示だね」と意味付けて下さって。私もすごい腑に落ちたので、今はそれを受け入れている感じです。後付けではあるんですが、意味って後から生まれることのほうが多いし、私にとってはそれがリアルだなと感じられたから、これからはONLY 1を背負って生きていこうと思っています。

Q: SUNNY ONLY 1になって、MY FRIEND THE MOONの頃と音楽性は変わったと思いますか?

 

めちゃめちゃ変わりました。バンドの頃は、ただただ東京が嫌いだったんですよ(笑)。大阪はお節介な人が多いじゃないですか。だから、「なんで東京の人はこんなに冷たいんだ」って。そういうギャップにやられて、家のなかで鬱屈としながら、「みんな嫌いだ!」って気持ちを歌詞にしていました。でも、今はひとりになって、もうちょっとポジティブな気持ちを大切にしたくなった。そう思えるようになった過程には、いろんな方との出会いがあったんですが、とにかく希望が見えないのは嫌だなって。だから今は、「一緒に踊ろうよ!」とか「もっと好き勝手やろうぜ!」とか、自分にとっての希望を歌っている感じです。上京して4、5年経つから、強くなってきたのかもしれません。次のEPでも、自分に対する応援歌みたいな曲があって、それをリリースするのが今はすごく楽しみ。共感してもらえる部分もあるんじゃないですかね。自分の悩みは大きく見れば人類の悩みでもあるはずなので。

Q: 「もっと好き勝手やろうぜ!」という歌詞は、大阪の野生児時代を思わせます。今のSUNNY ONLY 1さんの気持ちが、当時に回帰しつつあるのでしょうか?

 

あるかもしれません。大人になるって我慢が増えることだと思っていたんですよ。自分にはその我慢ができなくて、苦しんだ時期もありました。だけど、今思うのは、むしろ子供の頃に感じていた興味や好奇心こそ、大人には必要だってこと。そのことに気付いたから、あえて「もっと好き勝手やろうぜ!」と歌っている部分はあるかもしれません。あらゆることに対して、子供心を持っていちいち面白がるのが、人生を楽しく生きるポイントだと思うので。とはいえすぐに、その辺の花を見て感動することはできないので、少しずつそういうマインドになれるよう練習をしている最中なんです。

今回、クラブチェックのコートを選んだSUNNY ONLY 1さん。「『性別が不透明なミステリアスさ』というのが私のテーマなので、中性的なファッションが好きなんです。このコートはレディスなんだけどボーイッシュなところが気に入りました」。コートの下には、ロンドンの音楽シーンとも縁が深いフレッドペリーのポロシャツを着用し、英国らしさをプラス

Q: 最後に、今後の目標を教えてください。

 

子供の頃からずっと変わってないんですけど、メッセンジャーになりたいんです。自分が育った施設は、とても良い場所だったんですよ。だけど、やっぱり道をそれちゃう子はいる。喧嘩に明け暮れる子だったり、若くして妊娠しちゃって「自分の人生ないわー」と愚痴る子だったり。私自身もそうなっていた可能性はある。EXITの兼近さんが「環境が悪いと、そのなかで勝てる方法を探してしまう」と言っていたんですけど、本当にその通りだなと思います。そういう子たちに対して、音楽を通して「もっと夢を育てよう」「その夢の為に行動しよう」と伝えていきたいんです。今はもっと音楽で成功して……何が成功かはわからないけど、とにかく売れて、声を大にしてそう訴えられるヒーローになることが目標ですかね。

アーティスト

サニー・オンリー・ワン

1998年生まれ、大阪出身。アパレルブランドや広告のモデルをしながら、19歳でロンドンへ単独渡英。音楽に感化され20歳で東京に帰国し、シンガー・SUNNY ONLY 1として活動を始める。最近では、アーティストコレクティブ・balaとしても活動中。どんぐりず 森を客演に招いた「Dance like a monkey feat. 森」などをリリースしている。Instagram @sunny_only1

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