スローンレンジャーとイギリスの田園風景 -The Sloane Ranger and the English Countryside-

Text: RACHEL SEELY
Translation: AKIMI ASAI
Photo: GETYY IMAGES

 ‘80年代のロンドンで一世を風靡した「Sloane Ranger(スローンレンジャー)」。ダイアナ元妃がアイコンとなり、貴族や上流階級たちが纏う品格あるそのトレンドスタイルは、若者たちの憧れのファッションとしてイギリス中で大流行しました。前回は、都会に拠点を置くシティレンジャーにフォーカスしてお届けしましたが、今回は郊外で過ごすカントリーレンジャーに焦点を当てます。最盛期にスローンレンジャーとして過ごしたイギリスの映像作家のレイチェル・シーリーさんが、当時の記憶をなぞりながら、彼らの装いやライフスタイルについて教えてくれました。(シティレンジャーの記事はこちらから)

自然や緑豊かな地で日常と余暇を過ごす

 ドイツ語に「故郷」の意味を持つHeimat(ハイマート)という言葉がありますが、これには集団やコミュニティに加わり、帰属意識を感じられる場所という深い意味が含まれています。ヨーロッパを中心にナショナリズムが台頭しているこの不安定な時代には、時に厄介な言葉ではありますが、カントリーサイドで過ごすスローンレンジャーを想起させるには、まさにハイマートという言葉はしっくりくるものがあります。

 

 前回の記事でも触れましたが、スローンレンジャーは生活をロンドンに置くシティレンジャーと、郊外に家を所有するカントリーレンジャーに大きく分かれています。スローレンジャーにとってのカントリーサイドのエリアと言えば、南のサセックスダウンズからスコットランドのハイランド地方にまで及ぶかなりの広範囲。その中でも聖地と言えるのは、ロンドンから車で約2時間半の場所に位置する、6つの群にまたがったコッツウォルズ。理由はふたつあります。一家の大黒柱である父親の経済力を維持するために、都心からほど近い場所に位置しているということ。そして、もうひとつはジョン・コンスタブルが描いた絵画のような、穏やかな起伏ある田園風景が広がっているということです。この条件を満たすのが、まさにコッツウォルズなのです。

カントリーレンジャーといっても、都会に家を持ちながら週末だけを郊外で過ごす、または郊外を拠点にしながら都会へも頻繁に出かけるなど、過ごし方のスタイルはさまざま。裕福な家系であるほど、カントリーエリアで過ごす時間が長くなるのが特徴です

カントリーの象徴的な着こなしとルール

 郊外でのライフスタイルは具体的にどのようなものだったかと言えば、昼は乗馬や狩猟、射撃、釣り。夜はゲストを招いてハウスパーティを催し、食事やお酒を嗜みながらカントリーハウスやエステートで賑やかにおしゃべりして過ごすのが定番でした。もともとイギリスでは週末に豪華なパーティをひらく習慣があり、社会・経済的に影響力のある人物を招いた食事会では、季節に応じた歓談で交流を深めていたものです。

 さて、これらのカントリーライフを充実させるために欠かせない装いと言えば、ワックスコーティングした防水のコートにツイードジャケット。屋外での乗馬や狩猟ではこの合わせが象徴的なスタイルで、男性たちのユニフォーム的存在でした。女性はVネックのカシミアニットにキルティングのジレやジャケットを羽織り、ボトムはツイードのスカートかジョッパーズが主流。ハンターのレインブーツ・ウェリーやフラットキャップの小物も欠かせないアイテムでした。フラットキャップは世界最高の紳士洋品店が並ぶ、歴史ある通りで購入することができますが、ここでトリルビーにも出合うことができます。特にロック・アンド・コー・ハッターズのトリルビーは英国の特権階級を示すステータスのシンボルとみなされ、クラシックなブラウンのトリルビーを被った紳士と淑女が競馬場を埋め尽くしたこともあったほどです。

 日中の屋外の活動には、1年を通して特別な行事も予定されており、スローンの社交カレンダーにはイギリス王室が開催するロイヤルアスコットや、リヴァプール郊外で行われるグランドナショナルなど必ず参加しなければならない競馬のレースがいくつかありました。このような場では男女共にドレスアップは必須。しかし、日常ではあまり煌びやかにしていたり、手入れが行き届いた装いは下品にうつり、あえてカジュアルな部分を盛り込むことがルールにあったことがカントリーレンジャーの服装を語る上でポイントになります。

1985年のアスコット競馬場でのレースウィークの様子。英国で人気の競馬イベントであるロイヤルアスコットでは、華やかなファッションも見所のひとつ。よく見ると、群衆の中央にいるのはダイアナ元妃

 カントリーレンジャーのスタイルはあらゆるアウトドア活動に適した機能的なものでしたが、後にファッションとして大衆的なものへと変化していきます。男性はブレザーにコーデュロイパンツ、足元はブローグシューズ。女性はローラ・アシュレイのドレスにパンプスを合わせるのが定番となり、次第にシティレンジャーの装いに酷似したスタイルへと移り変わっていきました。

垣間見えるスローンたちのもうひとつの姿

 往年のスローン・レンジャーはイギリスの社会階級である地主、いわゆる貴族の下層に位置するランド・ジェントリー出身の上流階級に属する人たちです。ドイツの哲学者・ショーペンハウアーは、「富裕層といわゆる上流階級の人々は、退屈に最も苦しんでいる」と述べていますが、特にカントリーサイドでの暮らしは実はその言葉そのもの。気を紛らわすものがほとんどなく、社会的な交流から抑圧されてしまう環境ゆえ、その反動から昼間からウイスキーを飲み、スポーツの合間に不倫や性的な行為が彼らの解毒剤となっていました。イギリスの貴族や上流階級には、郊外の中流階級に比べて性に対する考えが寛容的だった実情が見えてきます。保守的な女性像がこの時代に蔓延しているのとは対照的に、カントリーレンジャーの女性は、ある種の性をアピールする衣服を纏っていたとも言ってよいでしょう。

上:コッツウォルズがあるツイングランド南部・グロスターシャー州ビスリーの自宅でのジリー・クーパー 下:ジリー・クーパーが愛用していたハンターのブーツとアンクルブーツ

 セクシーなスローンの著名人を挙げるとするなら、作家のジリー・クーパー。お手入れされたヘアや、歯を見せたセクシーな微笑み、フィッシュネットを着こなす姿はまさに代表的存在と言えます。最近では、‘90年代にモデルとして活躍したジョディ・キッドや、セレブ一家に生まれたモデルで女優のカーラ・デルヴィーニュなど。ファッションアイコンである彼女たちには、名家貴族の血を受け継いだ意味を持つ「good breeding(良き血筋)」という名が刻印されています。エレガントで落ち着きがありながらも、時にはエキセントリックな姿で際立つこともしばしばあり、典型的なスローンではないもののイギリスのスタイルを表現し続けている女性たちです。

左:’90年代を代表するモデルのひとり、ジョディ・キッド。2014年のイギリスのエプソム競馬場で開催された、ダービーフェスティバルのダービーデーに出席した際の装い 右:ロンドンで不動産業を営む父と、貴族出身の母との間に三姉妹の末っ子として生まれたカーラ・デルヴィーニュ

社会階級と過去の遺物を超えて

 スローンレンジャーの成り立ちとファッションを紐解くには、英国の社会階級制度についての知識が必要ですが、実は見かけ以上に複雑です。『タイムズ』紙のジャーナリスト、ベン・マッキンタイアーは、1930年代の貴族のアイコン的存在であったミットフォード家の6人姉妹について、「ファシストのダイアナ、共産主義者のジェシカ、ヒトラー好きのユニティ、小説家のナンシー、公爵夫人のデボラ、目立たない鶏肉鑑定家のパメラ」と表現したことがあります。この言葉が示すのは、旧弊な世界から自立を試みたセレブたちの多様な資質と、階級制度の関係が深く絡み合っているところにあります。一見裕福で社会的地位が高いスローンレンジャーですが、厳格なルールやドレスコードに従わなければならない閉鎖的な一面や、それを纏う若者たちに対するプレッシャーが蔓延していたことは間違いありません。

 

 パンデミックとEU離脱の影響もあり、イギリスは自然回帰の精神から、人々が都市部から田園地帯へと移り住むホワイトフライト現象が起きています。経済が低迷する中、緑豊かで心地よい土地への恋心がいつまで続くのかは未知の世界ですが、カントリーライフの魅惑的ブームはしばらく続きそうです。世の中の動きとともに、そしてイギリスのファッションアイコンであるデビッド・ボーイのように、スローンレンジャーはポップカルチャーのトレンドとして、典型的な精神に縛られることなく、誰にでも愛されるファッションスタイルであるべき。これからのスローンルックは、品格はありながらもよりモダンでなカントリーシックへと変化し続けていくことでしょう。

映像作家・脚本家・監督

レイチェル・シーリー

メディア業界全体でさまざまな役割を担ってきた、英国貴族出身のマルチ映像作家。現在は、脚本家・監督としてのキャリアをメインにしている。生まれは典型的な上流階級の家庭。15歳になる頃には、田園地帯のカントリーハウスでポニーに乗ることに退屈し、寄宿学校を退学。その後シティレンジャーの中核だった地区に身を投じる。ここ最近はロンドンからコーンウォールに活動のベースを移し、映画制作の傍ら、ストーリーテリングを用いて古今を伝え合うコミュニケーションスペース、42 The Living Roomを9月にオープンする予定

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