手のひらから考える地球、そして命の循環(後編)

福岡伸一

Text: MIKI SUKA
Photo: SHINSAKU KATO

19世紀の産業革命時にロンドンで創業し、時代に新しい風を吹かせたアクアスキュータム。“一生もの”とも呼べる耐久性を誇るトレンチコートは、170年という長い歴史のなかで普遍的な存在価値を築き上げてきました。自らの原点を力強く心に留めて研究に打ち込み、次の新時代に向けて貴重な声を発し続ける人がいます……。生命は、変わらない為に変わり続けているという理論「動的平衡」を提唱し、学問の範囲を越えて注目を集める生物学者の福岡伸一さんです。私たちの身体のなかのミクロの世界から、生き物全体の生命観に至るまで、その研究範囲は幅広く、誰の心にもすとんと届くわかりやすさで、社会を揺り動かす、力ある言葉を届けてくれます(前編はこちらから)。

生命的に、今を生きるということ

「では、“生きる”というのはどういうことかというと、『エントロピー増大の法則に抵抗する』ということが生きるということなんです。エントロピー増大の法則とは、秩序あるものはすべて、秩序がない方向にしか動かないということ。例えばピラミッドのようなどんな壮麗な建造物でも、何千年か経つと砂粒になっていくわけですよね。ピカピカの宝飾品だって錆びていくし、整理整頓しておいた机の上だって、3日もしたら書類が倒れてきたり、本の山になったりして崩れていくわけです。それはすべてのものが、形あるものから形がない方向にしか動かないという、宇宙の大原則にしたがって崩れていくからです。

 

生命体も同じで、細胞というすごい秩序が高い状態でも、常にそれは壊されよう壊されようとしているわけです。酸化されたり、タンパク質が変性したり、ゴミがたまったり。放っておいたら、あらゆるものがすべてダメになってしまう。だから生命体はなんとかエントロピー増大の法則に打ち勝とうとして、普通だったら転がってしまう坂を、ちょっとずつ登りかえそうとしているわけです。その為の方法が、自分自身を積極的に壊すこと。エントロピーをどんどん捨て続けながら、先回りして壊し、そしてあえて作り直すということをしているんです。けなげな努力を一生懸命やっているから、生命が生命たりうるし、環境が変わればちょっと変わることもできるし、老廃物もなんとか捨てていける。それでも、『エントロピー増大の法則』がちょっとずつ勝っていくのは仕方がなくて、それがエイジングということだし、老化ということなんです。

 

人間の製造物は、なんとか長持ちさせる為に最初から堅牢に頑丈に作っておけばいいというものが多いですよね。けれど生命体自体は、最初から堅牢に頑丈に作って長持ちさせようという思想をやめて、ゆるゆるやわやわに作っておいて、むしろ自ら壊しながら作り替えるということを選んだわけですね。だから、それが本当の意味で“生命的”と言えるんです」

修復しながら使い続ける、生命的な未来のあり方

自然環境や、人の生き方そのものに向き合うべき転換期を迎えている今、私たちが抱えている問題は、科学を飛び越えて、文化的で生命的なものへとシフトしているよう。そのなかで、福岡さんが見つめてきた「生命観」や「動的平衡」の思想こそ、未来を生きていく上で大いに役立つことがありそうです。

「より生命的に何かを変えようとするならば、あるいは今後さらに未来を見ながら、サスティナブルまたはサーキュラーエコノミーみたいなことを考えていくならば、ものをただ堅牢に頑丈に作って長持ちさせるのではなくて、むしろあらかじめ壊れること、痛むことを折込んで、なんとかちょっとずつ修復しながら進んでいくのがいいと思うんです。リペアしながら同じものを使い続けていったり、あるいは痛みやすいところはあらかじめ交換できるようにしたり。アクアスキュータムのトレンチコートは、非常に堅牢に頑丈に作られていながら、リペアのサービスもあって、一生ものにして使うという点でリスペクトすべきひとつの良い方法だと思います。

 

生命はすべてのパーツがいつでも取り替えられるよう、あらかじめ壊されることを準備して作られている。建築物や都市などは堅牢に作って長持ちさせようとしていましたが、10年20年は持つけれど、100年200年はわからないし、1000年2000年は持たないわけですよね。ファッションももし生命体のような方法で生き残ることを選んでいくならば、あらかじめ壊れるということを受け入れて、ちょっとずつ修復しながら長持ちさせるということのほうが、より長いスパンで存続できるように思います。

 

大きく変わってしまわない為に小さく変わり続けている、というのが生命体の特徴です。さらに私たちの細胞の原理もそうです。ジグソーパズルのピースみたいに互いに他を支え合い律していくという『相補性』が守られています。東洋的な文化圏や、西洋でもイギリスのように歴史が長い文化のなかでは、古いものを愛し修復しながら作り直すという考え方が温存されていると思います。イギリス人も日本人も、その思想のなかには『流れの自然観』みたいなものも少なからず根付いている。ちょっとずつ直しながら使っていこうという『動的平衡』の思想にも通じるものがありますね」

地球環境と人との間に必要な、循環とは

人が地球に与えている悪影響を今私たちはひしひしと感じつつあるなかで、私たちに必要な心構えがあるとしたら、それはどのようなことなのでしょう。

「地球上に暮らす人間は、生物学的には他の生物と同じ生命体のひとつですが、自分たちは地球の支配者であり、自然資源、天然資源をどんどん消費しています。これは生物として正しいあり方でしょうか。

人間は、他の生物と同じ原理で生命現象を営んでいる生物の一員です。基本的には大腸菌とかミミズやカエルと変わらない生き物なんですが、ひとつだけ人間たらしめている特徴があって、それは『ロゴス(言葉・論理・理性)』というものを持ったことなんです。人間だけは非常に大きな脳を持ち得て、そのなかで『言葉』を生み出すことによって、世界を論理化することができた。その言葉の力が生み出した最大のことは何かというと、『生命現象=生命の基本的な掟』に気が付いてその掟から逃れる、ということを自らに許したことなんです。生命の掟とは何かというと、『種の保存』ということです。

 

魚や昆虫は何千個、何万個と卵を産みますが、その子供の大半は、ほかの生物に食べられたり流されたりして死んでしまう。でも、そのたくさんの卵のなかのわずかな子供が何頭か生き抜いて大人になり、パートナーを見つけて次の世代を産めば種は保存されるので、それがずっと連綿と続いてきたというわけです。このように多くの生物にとっては、『種の保存』が実現できれば、その為のツールでしかない『個』の価値は小さいのです。でも人間は『ロゴス』を生み出したことによって遺伝子と種の保存や掟を知ったうえで、そこから外に出て『個の生命のほうが大事だ』ということを認識し、互いに約束した唯一の生物なわけです。

 

種の保存よりも個体の生命のほうが大事で、個の生命の自由さが保持されればそちらのほうに価値があると。それが『基本的人権』です。だから、種の保存に参加しなくても個体には存在価値がある。生産性がなくても個は自由に生きていい、というのが人間が約束した素晴らしい価値なんです。でも同時に、人間は『ロゴス』に縛られているんです。それぞれの『個』に意味があると約束し、生まれてきたすべての子みんなに生きる権利と価値があることを選んだ為に、人口がどんどん増えているんですね。『個』を支える為に大量の食料がいるし、大量のエネルギー、大量の衣食住がいる。でも今、人間の個を大切にするあまり、地球環境に負荷をかけているというのが、だんだん明らかになってきたわけです。

 

生命には38億年くらいの進化の歴史があります。人間はその最後の20万年くらいに現れた新参者であり、最悪最凶の外来種です。地球環境にとって人間はいないほうが健全なのですけれども、人間は地球環境がなくては生存できないので、いろいろご迷惑をかけているわけですよね。だからそのことにもっと自覚的になって、地球環境に負荷と迷惑をかけるけれども、なんとかそれをサスティナブルなものにする為に、循環のあり方ということにもっと自覚を持たなくてはいけない。人間が乱している生命現象による循環に、きちんと責任を取らなくてはいけないんです」

福岡さんが山地で採取した、クスサンの繭。まるで透かし彫りのように多数の隙間がある網目構造。堅牢に作られた繭は弾力があり、幼虫が蛾になった時に外へと出られるハッチまで設けられている

万博が繋げる、時を超えた生命とその未来

生命の進化の一部である、私たち人間。その壮大で不思議に満ちたドラマの断片を丁寧にたどることは、これからの未来を作ることでもあると、福岡さんは私たちに教えてくれます。

「第1回目の万国博覧会が開催されたのは、1851年のロンドン。同じ年に、アクアスキュータムの1号店もロンドンに創業しているのですね。ヴィクトリア女王が長く治めていた19世紀当時のイギリスというのは、産業革命がおき、鉄道が走り、科学が勃興してきた時です。チャールズ・ダーウィンがガラパゴスから帰国して『進化論』を書き、カール・マルクスが『資本論』を書いたのもこの時代ですし、文化も科学も芸術も、新たな転換点を迎えた時です。それまで軍事を支えていた機能性の高いコートを一般のファッションに転換しようという試みはきっと、新しい時代の風を受けていたのでしょうね。そこから170年の時を経て、我々人間も『ロゴス(言葉・論理・理性)』と『ピュシス(自然・有機的なもの)』の間をさまよいながら、二度の大きな戦争を体験したし、様々な自然災害や歴史上の試練を経て今日に至っています。

 

そして今私たちは、循環的でサーキュラーな未来というのを考えていかなくてはいけませんが、より生命のあり方に適ったほうに変化するのが大事だと思うんです。『動的平衡』として生命は絶えず自分自身を壊しながら作り替えられていて、なんとか『エントロピー増大の法則』に対抗しながらも、最後は死を受け入れている。死は個別に見ると悲しいことだけれども、生態系全体で見ると、死ぬことによって生物が占有していた道を、誰かほかの生物に渡していくことでもある。ある場所や、その生物が消費していた食料や衣食住すべてを誰かほかの生物に手渡しているということなので、大きく言うと、自然の循環というのはすごく利他的なものでもあるんですね」

 

「動的平衡」と「相補性」、さらに「利他性」という新たな時代のキーワードを引っ下げて、福岡さんは2025年に開催される大阪万国博覧会のディレクターに就任したばかり。命の魅力をより多くの人に体験してもらおうという試みがスタートしています。

「少年時代にとてもワクワクした1970年の万博への恩返し、オマージュもあって、2025年の大阪万博のプロデューサーを引き受けました。38億年間、生命がどうやって進化してきたかを、『動的平衡』を体験しながらみなさんに知っていただこうと思っています。“いのち”をテーマにしたパビリオンのアイデアソースになっているのが、クスサンという蛾の繭です。網目状の張りのあるタンパク質でとても堅牢にできていて、自然に還るものなんです。私自身も2025年の万博に向けて、生命の理念というのをもう一度確認する時だと思っています。産業革命から170年が過ぎ、今後の170年を考えると、パラダイムシフトのような、ある種の人間のあり方というのを考え直さなくちゃいけない時代にきたんじゃないかなと改めて感じています」

生物学者

福岡伸一

ふくおか・しんいち 1959年生まれ。米ハーバード大学医学部フェロー、京都大学助教授などを経て、青山学院大学教授。米国ロックフェラー大学客員研究者。生物学者。分子生物学者としての科学への視点と、平易で情緒的なサイエンスの魅力を伝える書き手として人気を博す。『生物と無生物のあいだ』でサントリー学芸賞・新書大賞を受賞。著書には『動的平衡』、『芸術と科学のあいだ』ほか、「生命とは何か」をわかりやすく解説した著作多数。近著には『生命海流』がある。

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