未来に繋ぎたい記憶にこそ、香りを添えて(前編)

マイヤ・エンジャイ

Text: MIKI SUKA
Photo: CHARLES MORIARTY

170年前にさかのぼるロンドン。時代の先端を行きながら、未来に繋がるブランドとしてアクアスキュータムは誕生しました。ものに心を込めて、長く愛し使い続ける姿勢こそ、ロンドンっ子たちを魅力的に見せている所以かもしれません。そんなロンドンに憧れて、スウェーデンを飛び出したひとりの女性がいます。自らの感覚だけを頼りに、どこにもないオリジナルの香りを作り出しているのは、調香師のマイヤ・エンジャイさん。彼女のまっすぐな心が生み出す香りには、今人々が欲している家族や愛する人の温もりが宿っているようです。

憧れのロンドンカルチャーの中心地

「8ヵ月前、タワーハムレッツからショーディッチに引越して来たんです。自然光がたっぷり入る新しいスタジオに、一目惚れでした」

そう言って笑顔を見せるのは、調香師のマイヤ・エンジャイさん。2016年に、自身の名を冠した香水ブランド・Maya Njie Perfumes(マイヤ・エンジャイ・パフュームス)をたったひとりで立ち上げた人です。今では、世界中に顧客を持つパフュマーとして脚光を浴び、ブランドはさらなる成長を続けています。そんな彼女が暮らすのは、ロンドンのなかでもクリエイターが多く暮らし、ロンドンカルチャーを体現する街、ショーディッチ。多国籍なクリエイターたちが行き交うストリートはグラフィティで彩られ、話題のホテルやカフェも集まるお洒落な街は、様々なルーツを持つ文化がひとつになっているかのようです。

「私はロンドンっ子ではなくて、スウェーデンで生まれたんです。中部のベステルオースという大きな湖に面した都市で、父と母、それから2人の姉たちに囲まれて成長しました。長女と私は15もの歳の差がありましたから、私はいつも姉に憧れて育ちました。子供にとってスウェーデンは最高な場所で、工業都市と言われる街でも自転車で少し走ればすぐ近くに美しい自然を感じられるんです。休日には家族で湖に泳ぎに行ったり、ピクニックを楽しんだりした良い思い出があります」

窓からはバンクシーのアートワークが残るリビングトンストリートが見え、光がたっぷりと注ぎ込むショーディッチのスタジオ。ここで、Maya Njie Perfumesの香水が生まれます

自分を作り出した、ふたつの大切な背景

豊かな自然に囲まれて育ったマイヤさんは、自らがスウェーデン人であるというバックグラウンドとともに、もうひとつ大切にしているものがあると言います。

「私を作り出したもうひとつの背景は、アフリカです。私の母は生粋のアフリカ人。アフリカ文化のなかで育った母に、とても影響を受けています。ガンビア、セネガルなど、幼い時に何度も連れて行ってもらった南アフリカの光景は今でも忘れません。食べものもファブリックも、そしてファッションも。手に取るものすべてに刺激と影響を受けたと言っても過言ではありません。だから私の根源には、スウェーデンとアフリカ、このふたつの文化があるんです」

一つひとつの香りを確かめるように、心穏やかに調香していくマイヤさん。この日は、ピーチをイメージしながら甘く爽やかな香りを実験していました

幼少期に出合った香りへの旅

家族の温もりと自然の瑞々しさに触れたスウェーデン。情熱の色と刺激的な光に満ちあふれたアフリカ。ふたつの全く異なる文化のなかで過ごした子供時代のマイヤさん。その感性は、どこか特別で豊かなものへと育っていきました。18歳までを過ごしたスウェーデンでは、彼女の香りの旅はもう既に始まっていたようです。

「私は小さい頃から、どんな時でも匂いばかり嗅いでいました。誰かの家を訪れた時、お店に入った瞬間、家の裏庭に足を踏み入れた時も、自転車に乗った時も。物心ついた時から、すべての行動が匂いと結びついていて、それは誰もがそうするものだと思っていたんです。キャンドル、クリーム、文房具、ルームスプレー、洗剤••••••。私はいつも、香りのアティチュードに包まれていたんです」

ロンドンでの新しい挑戦

その後、親友のあとを追いかけるようにして、19歳の時にロンドンへやってくることになったマイヤさん。当時よく聴いていたというUKロックも、’90年代に流行ったインディロックも、異国の音楽をミックスさせたような無国籍の流行音楽が、自分のオリジンにも通じているような気がして、居心地が良くなったのです。

「まるでギャンブルみたいな出発でしたね。ロンドンでは、アパレルの会社で働いていましたが、妊娠がわかって退社し娘を出産しました。そして出産後に新しいことを始めたいと思って、28歳で大学に入ったんです。幅広いデザインの世界に興味があったので、ウォールペーパーから、本のデザイン、写真のプリント、テキスタイルなど、伝統的な手法を学びながら同時に近代的なデザインも幅広く学べるという、サーフェイスデザイン学科で学ぶことにしたんです。私はいつもカメラを持ち歩いていましたが、フィルムで撮った写真を暗室で焼く方法も覚えたし、同時にフォトショップやイラストレーターで加工する技術も身に付けることができました」

自ら作り出すものに正直であること。調香師・マイヤさんにとってのモットーはいつも、真実と結びついていることだと言います

自分のなかに潜んでいた「匂い」への気付き

そんな大学時代、最後の卒業制作の最中に、マイヤさんの才能が開花する出来事が訪れたのです。マイヤさんは、’60年代のスウェーデンにアフリカの要素をプラスした子供服のコレクションを制作していくなかで、彼女自身の家族のアルバムを用いて、インスピレーションを形作るムードボードをまとめました。

「私が生まれる前、まだ幼い姉たちが近所の人と家の前で写っている写真や、森に囲まれた家の写真などを集めました。私のヘリテージを説明する為には、ヴィジュアル化することこそ近道だと思ったし、理解されやすいと感じたんですね。写真から色を集めて、テキスタイルを制作していきました。その作業のなかで、驚いたことにすべての写真、すべての色に、それぞれ異なる香りが感じられたんです。私のなかに沸き起こったその匂いこそ、重要な要素なのだと気が付きました」

 

 

後編につづく

調香師

マイヤ・エンジャイ

スウェーデン・ベステルオース出身。19歳の時にロンドンに移住。出産を経て28歳の時にロンドン芸術大学に入学し、身の回りにある製品の外観やデザインを総合的に学ぶサーフェイスデザインを先攻。在学中に独学で調香を学び、2016年に香水ブランド・Maya Njie Perfumesを立ち上げる。自らのルーツであるスウェーデンと、母方の故郷・アフリカの文化を融合させたオリジナルの香水が、世界中で支持される。Maya Njie Perfumesは、売上げの一部を気候変動に寄付したり、英国内での使い捨て容器を廃止するなど、環境保全への意識も高い。

https://www.mayanjie.com/ Instagram @maya.njie.perfumes

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